リスクとハザードの話
1月某日、区役所で順番待ちをしていると、フロアにいる人達の携帯アラートが一斉に鳴り出した。
区役所ともなると緊急時には館内アナウンスがあるらしい。
津波の心配はないようだが、僕はソワソワ感がなかなか抜けず、ツイッターやニュースサイトをしばらく横断的に眺めた。
地元熊本が被災して以来、「臆病者の性格」に一層拍車が掛かり、地震に対しては自分から色々と調べたり、アンテナを立てている。
その過程で、地震は広告商品と性質がよく似ている事がわかった。
過去に効果が出ても(地震の最新理論を説かれても)、実際それが今後どんくらい効果をもたらすのかは誰にも分からない。
そして、やってみた(地震が起きた)後に蓋を開けてみて、どんなもんだったのか確かめなければならない。
どうやら、そんなものらしい。
書店にならぶ学者さんの本も背伸びして買ったが、著者の自己満足に近い知識無双本や、高校の物理の教科書を引っ張り出してこないと前に進めないような本がほとんどで時間がかかりそうである。恥ずかしい話、僕が全く理解出来なくて積読になってしまった。
ただ、全く違う切り口の本を読んでいた時に心がスッと楽になった1冊がある。
加えて、大分わかりやすい。森達也さんのニュースの深き欲望という本である。
ざっくり書くと「ニュースや報道はこんな感じで捉えて見なはれ」という本で、終始濃い疑似体験が出来る。面白すぎて一気に読んだ。
この本には「リスクとハザード、これらは常に別々に考えなければならないものである」と書いてあった。
この時点で既にピンと来た方は、相当頭の中が整理されているスマートな方だと思う。
僕は何度か読み返しても、しばらく意味が全然わからなかった。
実際に本書内で取り上げられていたマムシの例を記載する。簡単な文章だけど僕は何回も読んだ。
ーー
マムシは危険でハザード(毒性)が高い。なので常に警戒してゴム長靴をはいて生活をおくる必要があるか、というとない。 なぜなら都心部には生息していないし、田舎でも滅多に遭遇しない。つまりリスク(危険性)は低い。
ーー
という話。うーん、これだけだと何だか分かるようでわからない。
本書にもあるが、北朝鮮のミサイルで置き換えると分かりやすい。
結論からいうならば北朝鮮の弾道ミサイルは打ってきても僕らが気にする必要はほとんどない(もう打ってこない宣言?だしたみたいだけど)。
なぜなら、リスクもハザードも低いからである。
まずリスク(危険性)が低い。元々弾道ミサイルの発射実験として海に落とすことを狙って打っているものなので、自分達のところに飛んでくる可能性が相当低い。
とはいえ、何らかの誤差で日本列島に落ちたらどうするんだ、という意見もあるかもしれないが、こんな事を考えるより毎日の車の通勤で交通事故に遭遇する可能性の方がはるかに大きい。
次にハザード(毒性)も低い。ミサイルに踏襲されている火薬の量を考慮すると小〜中規模のビルをようやく1つ破壊できるくらいの威力しかなくて、仮に自分の隣の隣くらいの建物に落ちてきても自分に被害が出る可能性が低い。
だからといって、ミサイルなんて全然こわくねーぜ!さぁ打ってこいよ!という話ではなく、この「リスク」と「ハザード」の2つは常に整理して考えとかないと、いざというとき冷静な判断が出来なくなるよ、という話である。
僕は地震の報道や警報音だけを見聞きして、ただ反射的に恐れ、考えられなくなっていたのである。
一生懸命考えているつもりでも、全く頭が機能していない時って皆さんもご経験おありじゃないだろうか。
僕の他の例を出してみる。
クライアントや上司に怒られて上の空状態、小一時間無駄にした。
デートプランを考えに考えすぎて、立ち食いうどん屋(訳の分からないところ)に連れて行こうとした、
などがある。
立ち食いのうどん屋は事前にデートプランを相談した女性陣に全力で止められ、一命を取り留める事が出来た。冷静に考えて、うどん屋はリスクの塊である。
本書を読んで心穏やかに冷静なジャッジを下せる大人になりたいと強く思った。
余談だが、この記事を書き始めた今朝、僕は札幌で朝を迎えた。
パン屋さんが連なる円山公園駅というところに早起きして向かい、GW期間中も頑張るパン屋さんに行った。
パン屋さんの仕事っぷりにももちろん満足したけど、椅子とベンチ、オマケに屋根まで無料で用意されている札幌の街に僕は強く感動した。雨が降り出して、パン買ったはいいけどどこで食うねん、と困っていたところにスッと用意されていたのである。
忘れていた。
何かとお金を持ってかれる東京の外にはこんな素敵な「人のためだけを思う」空間が用意されていることを。熊本も福岡もそう、普通にあったわと。
なーんだ、お金払ってスタバ行かなくていいのか、と思うと何だか心が随分軽くなった。
リスクとハザード、本当はこんなしち面倒な事を考えなくていい世の中を僕らは作らないといけないのかもしれない。