恐れと見下しの心理について
網野善彦さんの「日本の歴史をよみなおす」という本の中に「畏怖と賤視」という説がある。
中学生の時くらいだろうか、頭ではなく「体」で覚えたこの漢字。本を開くまで、単語の意味を知らなかった。まず、これ「いふ」と「せんし」と読みます。
これらは簡単にいうと「恐れ」と「見下し」という意味を持っている。本書の「畏怖と賤視」の節に結構面白い事が書いてあったのでそれを紹介したい。
最近は家庭不穏なニュースも多いし、もし生活の中で「恐れ」や「見下し」という言葉にピンと来る人がいたら、少しでも心の支えになればと思う。
結論から書こう。
我々のご先祖さま達の「穢れ(けがれ)」という考え方が、我々の「恐れ」や「見下し」を生んでいる。
確かに「穢(けが)らわしい」といわれると今でも「汚い」に近く、見下したくなる印象を受ける。
遠い遠い昔、平安時代の人々の生活の中にはこの「穢れのルール」がいくつもあった。それが現代の我々には理解しがたいルールで結構面白いので紹介する。
例えば死穢(しえ)。昔は死は穢らわしいもの(死穢を纏っている)と考えられていた。お葬式に行った人は穢れている。だから清められる必要がある。お葬式の帰りに玄関先で塩を振って清めるのはここから来てるかもしれない。うーん、これはまだ何となく分かる。
産穢(さんえ)。出産した後、その子供の父母は穢れている。ちなみに父方は7日間、母方は35日間。日数の根拠は不明。腹痛めて産んだ母ちゃんの方が5倍も穢れてるんかい。ちょっとよく分からないくなってくる。
街で火事が起きれば焼亡穢(しょうぼうえ)。こうなってくると周りが騒ぎ出す。火事が起きた家主はすごく穢れているので周りから冷たい目で見られるわけだ。いやー家主の方が大変だろうに。。
犬や馬、牛も家畜は穢れている。それを養う人間も当然穢れる。
このようになにかにつけては「穢れる穢れる」と大合唱の時代だった。
さらに穢れは伝染すると考えられていた。
死穢で穢れた人の周りの空間は当然穢れている。そこを跨いだ人は甲穢(こうえ)となる。
全く知らない人が甲穢の空間をまたぐと今度は乙穢(おつえ)になる。さらに、また知らない人が乙穢空間を跨ぐと今度は丙穢(へいえ)となる。この時、甲乙丙と、どんどん穢れ度合いは軽くなるらしい。
ここまで来るともはや小学生がやるような仲間はずれ話でしょうよ。タッチしたやつは汚い、とか良くやったわ。
これを貴族階級の身分の人たちが本気で振りかざして来るもんだから庶民はたまったもんじゃないだろう。
ちなみに最高権力者の天皇が穢れた場合、行事は中止して政治は全部ストップだったそうです。
それくらい当時の人々はこの「穢れ」に対して恐れたり、穢れている人を見下したりしていたわけですね。
自分に恐怖感を与えてくるような人、自分の事を見下してくる人がいたら、大昔のご先祖さまの時代にはこういうエピソードがあったんだーと思って下さいね。
穢らわしい人なんて本来誰1人おらんのですよ。
だから恐怖を与えられる筋合いも、見下される筋合いもない。勇気を持って。
つらつら書いてたら深夜になりました。。
おやすみなさい。